soy-curd's blog

へぼプログラマーです [https://twitter.com/soycurd1]

されたくもないのにメンタリングされることに対する気持ち悪さ

先日、最近流行りの『エンジニアリング組織論への招待』を読んで、その中にメンタリングについての章があった。それによるとメンタリングとは、

対話を通じて、メンタリングする人の思考力を一時的に貸し出し、思考の幅を広げていくことで、その人の歪んだ認知を補正し、次の行動を促し、成長させていく手法です。

と書かれている。自分はこの文章を読んで、まず、「きも、。。。これ洗脳じゃん。。。」と普通に思ってしまった。

こんなふうに思った理由はたぶん簡単で、自分がメンタリングする側の立場ではなく、メンタリングされる立場で読んでいるからだ。つまりメンタリングされる側からすると、よくわからないけど自分の精神の状態を把握され、歪みを補正され、成長させられることになる。こんなに恐ろしいことはない気がする。

なお、この本ではメンタリングの手法として「傾聴」「可視化」「リフレーミング」というものが紹介されるが、これはNLPというジャンルの言葉っぽい。これは神経言語プログラミングの頭文字をとったもので、プログラミングとは全く関係がない、心理学畑の用語のようだ(もちろん、自然言語処理とも関係がない)。この言葉のwikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0)を見てみると、疑似科学というワードが出てきて、ああ、やばいな、という気持ちにさらになってくる。

たぶんこの気持ち悪さは、メンタリングに対して知識がないせいだと思う。Fear of the Unknownというやつだ。おそらく本当はメンタリングの技術は正当な科学的背景があって、それを用いることの正当性があるのだけれど、それが上のような疑似科学的な文脈で用いられることがあって、それが自分には知識が無くて弁別できず、一緒にまとめて気持ち悪さを感じさせてしまうのだ。

で、気持ち悪いなら気持ち悪いなりにメリットがないと流行らないはずなので、たぶんメンタリングの手法自体は正しいのだろう。雰囲気的に、メンターがまともならメンタリングもまともになる気がする。『エンジニアリング組織論への招待』では、メンターが導く方向性については正しい前提で話が進んでいるように読めるけれど、これはこの本がフォーカスしているのが「ソフトウェア開発」だからで、ゴールが明確で、「成長」させる方向についてもメンターとメンティーの間で一致できるはずなので、あまり実利的な問題はなさそうだ。これでこの本に対する憂いは無くなった。どんどんメンタリングされていきたい!ジョハリの窓を開示しよう!!!

蛇足として、企業で「メンタリング」という言葉が使われる場合、それは離職率を下げる方法の一つとして使われることがあるようだ(https://college.e-jinzai.co.jp/useful/manager/function-mentoring-that-prevent-new-member-from-retiring/)。なんらかの点で会社と社員のミスマッチがあると離職が発生するわけで、「歪んだ認知を補正」することによってミスマッチが無くなれば、離職率も低くなるだろう、ということだと思う。そんなの補正する前に採用時点で判断しろよ、という気もするが、なかなか難しい話なのだろう(カルチャーフィットを数値可するサービスも出てきているみたいだ https://www.wantedly.com/companies/meryeself/post_articles/81208)。素直な人材が欲しい、というベンチャー界隈の採用方面の気持ちの高まりも、この文脈だと理解しやすい。

以上のようにメンタリングの世間的な流行りを感じるので、学んでおくと生きていくうちの要所要所で効いてきそうなかんじがする。そういう意味で、『エンジニアリング組織論への招待』はメンタリングを学ぶための良い本なので、プログラマーなら一度読んで見ると良いと思う。

なお、こんなひねくれた私を導いてくれる人がいたらぜひ連絡をください(絶賛メンター募集中です)。

マンガでやさしくわかるNLP

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